いま本当に足りないもの?

 ひそかな問題提起
 下記の文は「Chris Crawford on Game Design」より、私が勝手に翻訳して抜粋したものです。この本は最古のゲームデザイン論文として知られる「The Art of~」の2003年度版といった趣のものです。
 "多くの興味深い進展にも関わらず、ストーリーテリングとゲームは未だに離れ離れで、この二つの融合の可能性に関して私は悲観的です。インタラクティブ・ストーリーテリングにほとんど未来が無いというわけではありません。私が言いたいのは、ストーリーテリングに関してはゲーム業界から何かインプレッシブなものが出現するとは思えないということです。本当の問題は核心的な部分にあります。ゲーム業界はテッキー・ギーク絶対主義の砦で、頭のわるいアートな人々が歩む場所などありません。彼らは内心、技術的なディテールに関して充分な注意をはらえばどんな問題であっても解決できると思い込んでいます
(略)
 コンピュータでゲームの世界を作る時、彼らが最初にすることは空間座標系とワールドマップをセットアップすることです。そして、物理的なオブジェクトを追加していき、それらに(仮想世界にプログラムされた物理法則に従う)プロパティを授けるのです。実に美しいですね。ストーリーテラーが仮想世界に着手する時は、全く違うアプローチを使うことでしょう。彼女の最初のタスクはおそらく数人のキャラクターを創造し、ドラマチックな特質を授けることです。ドラマチックな行動が起きるであろう、さまざまなステージの空間的関係に手を焼く時間はありません。これがゲームデザイナーとストーリーテラーの根本的な違いです。ゲームデザイナーは森羅万象を、巨大な、あらゆる目標を達成するために充分な正確さでシミュレーションされた物理システムであると見なします。人間の言語で宇宙を定義できるという発想は、彼らにとって全くのナンセンスです。これはゲームデザイン世界の創作力を支配するおろかな強迫観念に直結します。ストーリーは他のどんな部品とも変わらずにゲームに押し込むことができると思っているのです。彼らにとって、ドラマとはもうひとつのシミュレーションされた物理的システム(弾道学や光学のような)でしかありません。ゲームは相互作用するサブシステムの集合体です。3Dエンジンと、物理エンジンと、ああ、はい、ドラマエンジンと。私たちはただ単にいつものシューティング、パズル、リソースマネジメントゲーム等から始めて、ちょっとしたドラマもそこに詰め込めばいいのです。ハリウッドの専門家を雇って何か優れたものを書かせれば、あとはただブチ込めば良いということでしょ?
(略)
 ストーリーを理解するには、あなたはRomantic(大文字のRで)になる必要があります。ゲームの人々が理解することは、決してないでしょう"
 どう思われますか? 文中でストーリーテラーを「彼女」(she)としている点に注目してください。実際問題として、今日にいたってもコンピュータゲームの世界には男性が多く、クロフォード氏が指摘している過剰なまでのギークさや、ロマンチックな視点の欠如に苦しむ傾向にあります。
 逆に、ストーリーテラーたる「彼女」だけの世界があったとしたら? 今日、国内のアドベンチャーゲームやテキストヘビーなゲームはその好例で、「相互作用するサブシステム」や枠組みそのものに対するあまりの無関心さが、表現媒体としての停滞を招いてしまっているように思えます(既知のシステムを逆手に取った突然変異的な作品が時々出てはいますが、これは既存の枠組みが飽和している兆候でもあります)。パーソナルなコンピュータゲームの歴史がアドベンチャーゲームとともに始まっているということを考えると、皮肉というほかありません。しかしながら、去っていったギーク達にとってこのジャンルはすでに不毛の砂漠であって、彼らが十字軍となって戻ってくることはなさそうに思えます。
 コントラリアンは忍耐力
 両極端な視点から物事を見ることは、いつでも大きな安心感をもたらします。中間的な視点を持つということは、明確な答えを持たないということでもありますから。とにかく、ギークでも「彼女」でもない視点というのは、今のコンピュータゲームの世界でぽっかりと口を開けている大いなる溝のようなものです。ほとんど誰も手をつけようとしないこの部分に、素晴らしい鉱脈が眠っているかもしれません。
 余談ですが
 アメリカ人神学者のピーター・ファン曰く、
"どっちつかずであるということは、ここに居るわけでもあそこに居るわけでもなく、これでもなければあれでもないということである。

 空間的には、それは周辺または境界に存在するということである。

 政治的には、それはふたつの交差する世界の力の中心に存在するということではなく、ふたつの支配的グループが出会い衝突する、不安定で狭い末端に存在するということであり、公共の利益のために力を結合できる機会を否定するということである。

 社会的には、どっちつかずでいるということはマイノリティの一部分であり、社会的に無視されたグループのメンバーということである。

 文化的に、それはどの文化システムにも完全に取り入れられても受け入れられてもいないということであり、混血人であるということである。

 言語学的には、どっちつかずとはバイリンガルであるが、どちらの言語もマスターしてはおらず、よく独特な訛りで喋る人物のことである。

 心理学的にそして精神的には、その人物が境界明瞭で堅牢な自己アイデンティティを所有しておらず、しばしば過剰な感受性、根無し草としての性質や、同一性に対する過度の渇望を際立って見せる。

 しかし、過去の心理学的・社会学的な調査が示唆するように、どっちつかずでいるということは、完全なディスアドバンテージとネガティブさをただちにもたらすわけではない。逆説的にではあるが、これ(this)でもなくあれ(that)でもないのであれば、これにでも、あれにでもなれるということになる。両方の世界と文化に同時に属することにより、「はみ出し者」たちはこれらを融合させるチャンスを持っているだけでなく、彼らのそれぞれの資質から、新しく、異なる世界を作り出すことによって、ただ単にふたつの世界と文化の間というだけでなく、それを超越したところに立てるのである。"

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