2020年のゲーム学、あるいはルール≠ゲームを受け入れる

 2020年のゲーム学
 2000年代に登場した「Chris Crawford on Game Design」には、次のようなフローチャートが掲載されています。
 クロフォード氏はルールズ・オブ・プレイによるゲームの定義を批判しました*が、クロフォード氏の当時のフローチャートも同様にある致命的な欠陥を抱えています。それはルールや目的が参加者の裁量で変わってしまうゲーム、例えばRPGをゲームとして定義できないということです。

* ルールズ・オブ・プレイによる定義:"An activity with some rules engaged in for an outcome." (ある結果を出すために行う、いくつかのルールが適用されたアクティビティ)。
クロフォード氏は、「これでは自動車を運転して目的地に行くだけでもゲームになってしまうが、多くのドライバーにとってはそうではない」とする。


 最近のさまざまなゲームを見てみると、ルールを中心軸としてゲームをどうこう言うこと自体、もはや不可能になっているようにすら思えます。あえて言うなら今のゲームの中心軸はプレイヤーの気分や感情だからです
 問題:RPGはゲームか?
 ここで名指しで異端児扱いされたRPGの状況を見てみます。RPGの状況は本場・米国と日本で大きく異なります。米国ではRPGは「ゲーム」のままですが、日本においてRPGは(意見は分かれるでしょうが)どちらかというと演劇のような何かとして解釈されていきました。

 普通、ゲームは勝つことが目的ですが、演劇は自分のキャラクターが「勝つ」ことが目的とは限りません。自キャラがドラマチックに死ぬことが「あがり」であり目的かもしれません。

 ウォーゲームやスポーツシミュレーションをルーツに持つRPGは、プレイヤーキャラクターによる様々な行為の判定にサイコロを用います。インディー・ジョーンズのように、転がる大岩から逃げている。そんな状況を想像してください。目の前にはジャンプすればぎりぎり向こう側にまで届くかといった大きな崖があり、絶体絶命の状況。向こうまで無事ジャンプできるかどうか、プレイヤーはサイコロを振ります。さあ、RPGはこれをどのように捉え、システム化するでしょうか?

 (1) 判定は絶対である。失敗したらキャラクターは落ちて死ぬ。
 (2) 判定は絶対だが、失敗した場合は「崖にしがみついて九死に一生を得ている状態」になり、もう一度判定して成功すれば死なない。
 (3) 判定するが、失敗した場合は「崖にしがみついて九死に一生を得ている状態」になり、もう一度判定して成功すれば死なない。また、何かを消費して判定を強制的に成功させられるルールがある。
 (4) 失敗したらキャラクターは落ちて死ぬが、復活してゲームは続く。
 (5) 判定するが、あるのは大大成功、大成功、普通の成功の3段階で、失敗はない。
 (6) そもそも判定はない。喋って、本人やまわりの人間が納得すれば成功である。

 どれも正解です。そして上に行けば行くほど「昔」のRPGで、下ほど「今」ふうの日本のRPGに近づいていきます。

 なぜこうなったのでしょう?
 ルールは邪魔者?
 ゲームにおいて一つ忘れてはならないのは、最初から失敗しようと思ってゲームをプレイする人は非常にまれということです。「あなたは洞窟に入って宝物を取ってくるヒーローです」と言われて、「よし!失敗して死のう!」と思う人はなかなかいません。

 他のストーリー主導のメディアに比べて、ゲームにおいてはバッドエンドしかないと、プレイヤーは「何か自分のプレイがまずかったのか」と疑心暗鬼になり、それだけで不評になりがちです(最近のゲームは「このゲームはバッドエンドしかない」と最初に警告してきたりします)。

 だいいち、ルールブックには冒険の内容が最後まで用意されていても、途中で失敗されたら途中でゲームが終わってしまいます。

 (4)の例はスパイ物のRPGで実際にあったのだそうで、ミッションの標的を狙い撃ちするシーンでの判定には大成功か、成功かで、失敗は最初からないわけです。考えてみれば、例えば007に出てくるエージェントが肝心な時に銃弾を外したら映画が成り立ちません。かっこよく演技して判定して失敗では話になりません。ハラハラさせつつも100%成功という結果のためにシステムがあるわけです。

 コンピューターゲームにおける完璧な物理法則を備えた箱庭でドラマが生まれない問題を思い出しましょう。乱数による意外性は笑えはすれど、感動をくれることは非常に稀で、場をしらけさせることが多かったのでしょう。そうこうしているうちに、本来ゲーム性として存在していた判定は邪魔なものになっていき、まずは演出によって判定をバイパスできるようになります。

 そしてついには、判定しないケースも出てきます。この種のデザイン思想において、場を白けさせたり、予想外の問題を持ち込んだり、負担を増やす可能性のある判定は危険物として扱われます。その代わり、こうしたデザインでは、参加者の納得や、他の参加者を楽しませることが要求されます。この種のゲームにおいてはまた、パズルやリドル(謎解き)もなるべく廃されます。プレイヤー自身が謎を解くのではなく、プレイヤーのキャラクターが謎を解く過程を遊んでいるからです。

 こうして、不動に思えたルールとプレイヤーの主従関係は逆転することになります。

 「2000年代のゲーム学」では、ルールはプレイヤーの上位に位置する神様で、プレイヤーはルールに従い、ルールに慣れ、ルールを解読し、ルールに適応するものでした。「2020年のゲーム学」では、ルールとはプレイヤーをもてなし、最大限に良い経験をしてもらうために存在するスタッフなのかもしれません。

 ゲームの勝者
 さて、RPGほど明らかでなくても、よくよく見てみれば、現代のコンピューターゲームのデザインにおいても、この逆転現象は当たり前になりつつあります。例えば……

 ・失敗するたびに少しづつレベルデザインが簡単になっていく、あるいは簡単にするアイテムなどが手に入るシステム
 ・死んだらすぐにその場所から再開できる(失敗してもペナルティが少ないか限りなく存在しない)
 ・クリアできないシーンは飛ばせる
 ・強いキャラクターがゲームプレイ外の論理(ガチャなど)で出てくる
 ・レースゲームなどで、下位のプレイヤーが加速する(輪ゴムにたとえてrubberbandingという)、あるいは良いアイテムが手に入る

 またいわゆるネットゲームにおいては、途中でルールが変わることは当たり前ですが、プレイヤーに不利なルール変更をするゲームは(風当たりが強いので当然ではありますが)まれです。普通であれば、もっと多くのプレイヤーが入りやすいようにルールをいじるはずです。

 ゲームはなぜ、このようになっていったのでしょうか? マリオカートの設計思想を聞いた時、とてつもなく感心した記憶があります。いわく、レースゲームは勝った人しか楽しめないので、勝ち負けではなくレース中の展開の面白さに主眼を置いたゲームを作ろうとしたのだそうです。

 結局、ゲームデザインとは何でしょうか。今から「レーシングをやりたい」と思って、そういうゲームをプレイする人がいます。その人はどのようなシーンを想像しているでしょうか? 道路を高速で走るシーン? ダートだらけの荒野を走り抜けるシーン? きっと1着でゴールインしているシーンもあるはずです。このプレイヤーをどうもてなすか考えることはゲームデザインでしょう。

 某有名3D格闘ゲームのプロデューサーがこのように語っていたと聞きます。

「昔はゲームには勝者は一人しかいなかったが、今のゲームはプレイヤー全員が勝者である」

 ゲームは生きている
 このような流れの一方で、スポーツとしてのゲームがジャンルとして確立されていっているのも見逃せません。そこではプレイヤーは、守られることや、「こっそり成功に導く」なんてゲームに隠しごとをされることを望まず、ルールの明快さを求めます。

 かつて、「良い」ゲームの基本条項として、テトリス等の落ち物パズルゲームや、格闘ゲームなどいくつかの有名なゲームの雛形をモデルとし、下記のようなものを考えました。

 (1) 今、大きな局面でプレイヤーがどのくらいうまくやっているのか、それとも追い詰められているのかが明確にわかる。プレイフィールドの埋まり具合、体力ゲージなど。
 (将棋の対局の中継で優勢度をゲージとして表示したら、一見の視聴者が増えたという話もあります)

 (2) なるべく良いテンポで次の課題が提示され、その課題に対してプレイヤーが成功したか失敗したかがすぐにわかる。
 攻撃が当たったか? 攻撃を避けたか? 出現したオブジェクトをうまく入れられたか? 落とし穴を超えてジャンプできたか? 料理はうまくいったか?
 アドベンチャーゲームのフラグ等でありがちだが、ずっと後で失敗が提示されてはいけない。

 (3) なぜ成功したのか、なぜ失敗したのかが明確にわかる。

 (4) スロットマシンのような不確定の要素を取り入れる。宝箱やレアキャラクターはこの最たる例である。「ご褒美」が一定で最初から見えているとゲームは作業と化す。一方で、大きな報奨が得られるかもしれないという可能性は人を引きつける。
 (1円もらえるボタンを1000回叩くのと、1000回に1回1000円もらえるボタンを叩くのでは、人間は後者を選ぶ)

 これは今でも変わっていないかもしれません。しかし、例えばあえて失敗を失敗と提示せず、逆にプレイヤーを褒めてあげるのも今となってはデザインの選択肢のひとつです。

 ゲーム学の何十年にも渡る停滞は、「そもそもゲームとは何か」が定義できないということに始まりました。しかし、よくよく考えてみればゲームとはリビング・クリーチャーであり、印刷された本の中に佇んでいる何かではないのでしょう。

 さて、さる研究職の方にこの話をしたところ、ゲームをまさしく生物学的に、生物の進化のように捉えるというアプローチを提案され、遅まきながら文章としてまとめられないかと思っているところです。これが次のゲーム学を切り開くものになれば良いのですが。

2020.11.20
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